昭和53年01月13日 朝の御理解
御理解 第40節
「重い物を負うておるか担いでおれば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい。」
冬に着ている着物を脱いだ時にこぉ抱えてみると随分重たいものを着ておりますですね。人から言いや私共のごと沢山こう着ておりますと。もう脱いだときの着物って随分重たいもんです。けれどもそれを身に付けておれば重さを感じません。あれを着ているだけの着物をいつも持って歩かにゃならんというなら、重たいです冬は。一遍試してごらんなさい、自分の着ている冬の着物に。人からいあるですよね。けれども身に付けているから軽いのです。
信心も同じ信心が重荷になる、信心しているから辛抱せんでもいい所でも辛抱せにゃならんとか。信心しているから、ここは言おうと思うばってん言われんとかと言う様なもうまさしく信心が重荷になっているわけですね。だから結局信心を身につけると言う事がね、信心は見やすいものでもあれば、信心はいわゆる重たいものではないと言う事。昨日は、初の美登里会でございました。皆さんの昨日は竹内先生が司会をしまして、全部の方に発表をしてもらいました。
はぁ成程流石に、合楽の魔女と言われた人達ばっかりの集いですから、成程素晴らしいとひとり一人の発表を聞いて思いました。もう本当にこのくらいに信心がなるなら、このくらいに信心を頂いているなら、もう信心が重たいものでもなからなければ、又はためにそれが邪魔になると、言った様な事は無い。いよいよ信心が身につくことが楽しい。しかもその願いが大きいと言う事は、それだけ重みを感ずる責任を感ずる。言うならば重みのようですけれども、それが一つも重みを感じていない。ただ有り難いなぁと言う様な事になってきている。
昨日のご理解の中に、神情と人情の使い分け。昨日皆さんは私の前日からの見たり、聞いたり、体験したことやらを四つの例を持って話しをいたしましたら、どうも人情神情の使い分けが分からなかった。けれども昨日のご理解を頂いて、神情人情の使い分けが良く分かりましたというお届けがいくらもあった。これはね人情ではおかげにならんのです。けれども人情を使ってはならんと言う事はない。
人間ですから、人間の情を使うと言う事はあれですけれどもね、そういう時にいわゆる使い分けです、それが出来るようになりますと、信心が愈々有り難い尊いものになってくるんです。昨日善導寺の原さんがお届けをされますのに、あちらの千恵子さんの子が良一君が、まぁ非常にその肉やらはあんまり食べんけれども、クジラが好きだそうですので、この人がクジラが好きだから、それこそおばあさんのおこづかいで、買って食べさせたいとこぉ思われた。けれどもこれは自分の人情だと思わせて頂いておりました。
丁度前日が直方地区の共励会でしたから、あちらへ参られて行かれる途中にご親戚にちょっと寄られた。そしたらそこの嫁さんが「おばしゃま、塩クジラばたくさん頂いているけんちょっと持って行きなさらんか」というて、そのもうそのときの原さんの感動なんですね。クジラをもろうたつが嬉しいのじゃないのです。もう本当に孫が可愛く無いという婆がおろうはずはないね。
だからそこに人情をつこうたらね、成程家の婆しゃまは優しいとか、分っちゃるとかと言う事になるかもしれませんけれどもその次のね神様の言うなら働きの間違い無い事と言う事が分からんです人情では。信心とは神様の思いが愈々深く広く分かって行く事なんです。だから人情使っておったんじゃ、その神様のおかげに触れる事は出来ません。もう本当に皆さんそこの所がね、ちょっとあのきついごたるです人情を使うと言う事は。ならきつく人情を使ったら楽なごたるけれどもね。
信心させて頂くものはここのところをいつも心掛けさせて頂いているとですね、いわゆる神様の働きを愈々深く広く感ずることが出来る。成程人情ではおかげにならん、神情だから神情一つというわけにはいかんけれども、なら昨日朝のご理解を頂きよると、その使い分けを何かはっきり、分からせて頂くような気がいたしましたね。昨日新総代の秋山さん、秋山かずえさんが発表しておられました。
まぁ色々最近の信心を語られた後に、新総代としてのご用をうけたまわらせて頂いたが、どういう信心によれば新総代としてのおかげが頂けれるだろう。信心とは総代としての信心とはと言う事を思わせて頂いているところに、先日からね泉尾のみやけ先生の御信心の中に、「我が身どうなっても」という意味がどうしても私は分からなかった。ところが段々分からせて頂くことはとてもそれはもう自分の命を張ると言う事ですからね、どうぞこの信者を助けて下さい。
そうすりゃ私はもう助けてもらえば私はいつ死んでもよい。そんな軽がるしい事ではないとこぉ思うんです。そりゃそげなこつ言いよるなら沢山の信者が居るならどがしこ命があったっちゃ足らん。医者が助かるか助からん、もう命の死にぎわにあるというお届けがある度に私の命を投げ出しますから、どうぞ早う助けて下さいといいよるなら、もういくら命があたっちゃ足らんけん。そげな軽々しい事ではないとまぁ分かっておりましたけれども。それがわからなった。
「我が身どうなっても」という言葉をもうたくさん使われるお話の中に。そのくらい私は一生懸命だという意味でしょうけれどもね。けれどもそれが御神願とあるならば、「我が身どうなっても」というふうに私はそう先生の「我が身どうなっても」というのはそう言う事ではなかろうかというお話しを4、5日前でしたかねそういう話しがございましたね。そのときにその秋山さんが感じられたことなんです。総代としての言うならば思い、ひとつのご用というか責任。
だけであったら本当に総代になったけんで、責任が重いというて重い事になるでしょうね。けれどもそれを身に付け様とされるその精進がです、はぁ是だと感じたと言うのです。自分の上にどう言う事が例えば起こってきてもです、それが総代としてのご用の出きれる信心の元になるなら、私は以来「我が身どうなっても」というものを新総代にならせて頂いて感じましたという発表をなされました。感動でした皆感動しました。
もう本当に泣くまいという思っても泣かずにはおれんというようなふいんきの中にお話しをされました。あれはね、秋山かずえさんの感動ではないのです。もうすでに神様が感動してござるです。「我が身どうなっても」というときにその問題というものは軽々しい、軽々しいと言ったらちょっとおかしいですけど、軽いものになるわけです。問題が問題でなくなってくるのですね。願いを高度なところにおかなければならんと言う事が分かります。そしてはじめて身についてくるんです。
みんなが無事息災難儀、何も難儀を感じんですむというときには中々もって信心はできるもんではありません。というてそんならいつも難儀苦労しておっては、信心の値打ちがありませんね。けれども私共の内容である所の信心が、高度なものに成長して行くと言う事なんですね。それが信心が進んで行くのですね。重いものではない事が分かるでしょう。それを自分のこととして、自分のものとして身につけるからです。
新総代さん方が毎朝お参りをして、1日の合楽教会の事のお届けがございます。なれんからというのでしょうか、今日総代の永瀬さんが一人でお届けをなさいますから、私が申しました「あれはいかんよって、折角総代としてのご用を頂くんだから、一人ひとりがお届けをせにゃいけん交代でしなさい。」もう私はその次の日に、そう言うた明くる日正義先生がここでお届けをしましたが、もう私が重みを感ずる様なお届けでしたね。
あれは不思議ですね、言葉に出すまでの言うなら思いというか、その念というものがですね、後ろでなら永瀬さんがお届けをされる、後ろからどうぞとこぉ言うただけじゃ全然そのね、例えば教会の事を御祈念のときに祈らない総代はありますまい、いや信者はありますまい。みんなが合楽の信奉者である限り合楽教会大発展を願うでしょう。けれどもまた事細かに1日の行事なら行事の事を万事万端の事についてのお届けをですあの身をもって祈っておること、言葉にだすと言う事は素晴らしい事です。
言うなら、以来次々と変わって総代さん方がお届けをされる。言わばそこにはお届けの工夫がいるようです。昨日秋山さんがそのことも話しておられましたが、たしか昨日秋山さんがお届けをなさった。そしてあれも願わにゃならん、これもお取次ぎを頂いておかにゃならんと思っておりましたけれども、このこと一言を忘れておりましたからというて、またお届けがあった。
というくらいにです、責任を言うならば感じて、しかもそれがお取次ぎを頂いて、本当の成就になることのために日々お取次ぎを頂かれるということはね、その重さを感じれば、感ずるほどお届けをさせてもらう、お取次ぎを願わせて頂くその後の言うならば気分というか、いうなら心が心が軽い軽くなる。そのことを真剣に思えば思うほどそうなんです。最後に内田のおばちゃんが発表してましたね。
あれは不思議ですね、本当にその自分がそう思っている、その感じていることを言葉に出す、言葉に出すときにそれが、神様の機感に叶う様な事が、それを言いおうとするともう胸がつまるですね。あれは神様がね感動しよりなさってあるのですね。だから神様と一緒に交流している、感動しているときにはもう、神様がこぉ持っておって下さるからもう重たいものではないね。中々出来ません出来ませんけれども、日々様々なことが起こってまいりますけれどもね。
その一言ひとことがですね、御神願御成就のためならばと思うたら気が楽になるという発表をしておりましたね。だからその御神願をそのまま私共の願いとするほどしの信心にならせて頂く。恐らくはその御神願成就の思いの中には、合楽教会のこともありましょうけれども。恐らくは娘むこであるところの、末永夫婦の言わば、南米布教と言う事のことがその中の内容じゃなかろうかと私はまぁ思ったんですけれども、身近にそれがあればあるほどにそれを感じる。
御神願が御成就のためならば、このくらいな問題はね問題が問題ではないというわけなんですね。軽うなるでしょうが。先日梶原先生のお兄さんが毎日参ってきます。寒修行に通って、あの自動車できよった途中で、むつやにつとめております、のぐち順子さんがそれこそふうふうやって歩いて参ってきよった。それで途中でとめて、あの「車に乗りなさい」と言うていたら「いいえせっかくですけども」と断ったっち。もう私は本当にはっとしましたというて言っております。
はぁこれが信心の姿勢だと思ったといっているんですね。恐らく順子さんの心の中には歩いてお参りをすると言う事を寒修行の一つの修行とこぉ心に決めたわけです。だからそこに人がどうぞ、乗りなさらんか。しかも見も知らん人ならばあぶないとか、嫌と言う事もあろうけれども青年会どうしの方がですよ、止めて下さったけれども、「折角ですけれども」それで断られた。断れてなら梶原さんも感じたことは、「はぁこれが信心の姿勢だなぁ」と思ったというお届けがございましたね。
例えば一里なら一里の道をしかも真っ暗い中を寒い中をそのお参りをしてくる。そのことが一つも苦になっていないでしょうが。寒修行にかけるその願いとか思いというものがですね、いわゆる自分のものに身についたそれが思いだからね、それが言えれるし、それができるし、人にもまたそういうね「はぁこれが信心の姿勢だ」と改めて分からせて頂いたと言うてお礼を言っておりますね。信心は言うならば荷のうたり、持ったりするものではないね。だからこれを信心は楽じゃと。
ところが実際は楽ではない。楽ではないけれども、楽以上の楽という手立てができるときに、いうならば寒いときに沢山着ている言うならば外套でもね、着物でもそれこそひとそろびき、あるごたるけれども身につけておれば、「はぁ重たいなんて」思わないのと同じだと。するとそこには信心は楽だと言う事になる。まぁそれが沢山なものをつけておれば、つけておるほどそこに責任を重い、感ずれば感ずるほどですその責任は重い。けれども重ければ重いほど自分の信心の力が頂けれる。
それを自分の事として、自分のものとして身につけるからそれは重たいものではないと言う事になる。40節をただ読んだだけではね、教組様はそう言いなさるけれども、信心は中々やっぱ難しいとこぉ思います。けれども難儀を難儀と見取ればね、それは重たいです。もうその事自体が重たいです。けれども言うならそこの例えば難儀をです、少し高度な信心に持って参りますとです。
これによって神願が御成就する事ならば、もうちょっとくらいは、持ってもよかと言う位な心が起こってくるんです。そこに初めて信心がね、見やすいとか言うならば楽とか、言うならば信心の極楽境と言った様なものが開けてくるんです。願いを神様に喜んで、神様に交流するようなね、言うなら高い願いが願いとして頂ける。言うならば神の願いを願いとすると言った様な信心を愈々身につけて行きたいですね。
どうぞ。